島津義弘公「妙円寺詣り」 ①

炎表紙

10月22~23日は鹿児島三大行事の一つ、
「妙円寺詣り」が行われた。
シッタレもほんの僅かであるが、参加してきたのでその様子の一部を、
皆様にご披露したい。
太鼓踊り 徳重神社
 
そもそも「妙円寺詣り」とは?
関ヶ原の戦いで島津は敵中突破を果たした。
その苦難をしのび、士気を鼓舞し、心身の鍛錬を目的として、
鹿児島県民はこぞって約5里(20km)を歩き、
妙円寺(現徳重神社)に詣でる。

炎

その敵中突破の偉業とは?

時は1600年「天下分け目の関ヶ原」の合戦。
石田勢が敗走し東軍の勝利がほぼ決定的になった時、
それまで微動だにしなかった島津勢は、
ようやく動き出した。
それでも敵と切り結ぶ内に、約1千騎の兵はわずか3百騎になっていた。

義弘は退き方を考えていた。
なんと石田勢を追撃して来た東軍との大混乱の中で、
敵の真っ只中、中央突破を考えたのである。
西に退くのではなく東に、敵の中央突破を敢行したのである。

正面には「福島 正則」勢が待ち構えていた。
しかし、島津勢の決死の形相と一糸乱れぬ軍列にたじろぎ、
誰も手を出す者はない。

一時、家康の本陣を後退させ、その横をかすめて東軍の中央を突破した。
気づいた「松平 忠吉」「井伊 直政」や「本田 忠勝」らは、
あわてて追撃を開始する。
勢いに乗じた「井伊 直政」は馬上から「義弘」に詰め寄ったが、
島津の将兵に鉄砲で狙撃され負傷した。

数万の敵にたったの3百騎。
「島津 豊久」・「長寿院 盛惇」(ともに義弘の影武者として)の討死。
また、薩摩独特の捨て身の戦法「捨て奸(がまり)」で、
次々に倒れていく。
堺に着いたとき島津勢は僅か70~80になっていた。

[You tube]
「島津義弘隊 前進撤退」

これが世にいう「島津の関ヶ原退き口」所謂、
「敵中突破」である。

何故、たった1千騎で最後まで留まれたのか。
何故、たった1千騎だったのか。
何故、どの軍も島津を避けたのか。

そこには大きな伏線があった!!

松明
サムネイル画像をクリックすると拡大します。

今宵よりシッタレの得意分野「歴史」の世界に、
皆様を誘い申そうと存ずる。
しばしお付き合い下され度お願い申し上げる。

次回に続く。

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