薩英戦争第二弾 ①

昨年9月にシリーズ化しました「薩英戦争」の
第二弾を予告してそのままになっていました。

なにしろ制作についやす時間が極端に少ないので、
どうにか時間を作ってUPして行きたいと思います。
気長にお付き合い下さい。

先ず第二弾、一発目として動画を創りました。
かなり短いですがご覧ください。

「薩英戦争白鷺」 クリック!!

音楽
STAR TREK「スター・トレック」 Vol.1
オリジナル・サウンドトラック・スコア (SLCS7078)
曲名 ”MAIN TITLE”and”CLOSING THEME”
    (メイン・タトル&エンディング・テーマ)

作曲  アレクサンダー・クーリッジ
指揮  フレッド・スタイナー
演奏  ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ

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薩英戦争と英国留学生の軌跡

追加 (10/12)
これまでTOP記事にしていましたが、一向に新記事に取かかれない為
一旦9月20日に戻すことにしました。


「薩英戦争と英国留学生」シリーズの最後を飾る動画
you tube
「薩英戦争と英国留学生の軌跡」  クリック!

「薩英戦争と英国留学生の軌跡」を製作しました。(9/21 2013)
ご覧ください。
錦江湾A
錦江湾奥に開聞岳が、手前に神瀬灯台が見える
沖小島
沖小島と桜島の間に機雷が設置された。
中央奥には引潮の時島との間に道だ出来る「知林ケ島」も見える。

前半と後半は英国艦隊と激しい戦闘を交えたであろう錦江湾を中心に。
中間部には留学生が旅立った「羽島浦」の海岸を。
「二反田 耕治」さんのトランペットの、
美しい音色に乗せてご覧頂きます。

BGMを考えるときあるメロディーが頭を過ぎった。
この曲はなんだっけ?
そうだ!「惜別の歌」だ。

「使用アルバム」嘆きのトランペット
「演奏者」  
トランペット   二反田 耕治
シンセサイザー  二反田 淳子

前半使用曲
「哀愁のアダージョ」
後半使用曲
「惜別の歌」

全体的に光を意識しました。
前半は朝日を。
後半は夕日を。

日本の黎明期と言われる幕末の男たちの、
熱い心が少しでも伝われば幸いです。
錦江湾B
激烈な戦闘があった錦江湾

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薩英戦争と英国留学生 ⑥

P9070025若き薩摩の群像

150年前、英国艦隊が波静かな錦江湾に現れた。
軽く脅すつもりが薩摩藩の反撃に遭い大激戦に。
薩英戦争後の外交交渉の機転により、
日本は植民地化されないで済んだと歴史家は口々に言う。

それから2年後の1865年4月17日留学生一行は
いちき串木野市(現在)の羽島浦からランチに飛び乗り、
沖で待つ「オーストレイリアン号」に乗り移った。
二度と故国の大地を踏むことがないかも知れない、
決死の覚悟の旅立ちであったと思う。
羽島浦
羽島から東シナ海を望む

恵比寿 記念碑
 恵比寿神社と記念碑

ここ羽島漁港は現在記念館の建設中だった。
岸壁を乗り超えて岩場に立ってみた。
その先は東シナ海が広がり、またその先は世界の大海原に繋がっている。
彼らは幾ばくかの不安と重責の中にも、未知の国への大いなる野望と期待が、
胸の中では沸々と燃え滾っていたのだろう。
それは後に各分野で多大な貢献を成したことでも明らかだ。
名前をあげたらきりがない。
各人の功績を逐一あげたいところですが,
画像でお確かめください。
足跡
留学生の足跡

私は目の前のある一点を見つめていた。
2羽の海鳥が寄り添って羽を休めている。
そこは皆がランチに飛び移った瀬の岩場で、
150年後の今でも変わらずそのまま、
目の前に波を受け浮かんでいる。
瀬 ランチ瀬
 留学生がランチに飛び乗ったという瀬(小さい島)

目を閉じてみた。
その時の光景が脳裏に浮かぶ。
何故か自然に瞼が熱くなった。

日本の黎明期を創り上げた幕末の激動の時代から、
今年は150年の節目の年にあたる。
薩摩藩は日本の辺境の地にありながらも、
残した功績は余りにも大きかった。
その血が私たちにも脈々と流れている。

若きソラリア 若きアミュ
 鹿児島中央駅前東口広場「若き薩摩の群像」
昭和57年3月 制作 中村 晋也

番外編から思わぬ方向へ走ってしまいました。
事前の企画検討もなく思うままに進めてきました。
皆様にはここまでお付き合い頂き感謝に耐えません。

動画も用意したいと思いますが、少々時間が掛かります。

次回からはまだ何をやるかは決めていませんが、
データの在庫は豊富です。
次の企画を楽しみにお待ちください。

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薩英戦争と英国留学生 ⑤

かごしまは今、
昨年の生麦事件150周年から明治維新が成るまでの、
5年間の150周年記念行事が目白押しで企画されています。

▽「薩英戦争」探訪バスツアー (一般300円・小・中学生150円 各回40人)
               10/25午前10時と午後1時
               10/26午前9時
               鹿児島中央駅西口広場集合

▽「薩英戦争」探訪クルージング(一般500円・小・中学生250円 定員200人)
               10/27午前10時~正午
               桜島フェリーターミナル前集合

▽「薩英戦争」シンポジウム
               10/27午後1時半~午後4時半
               鹿児島市中央公民館

▽「薩英文化祭」
               10/26午前10時~4時
               鹿児島市中央公園

※バスツアー・クルージング・シンポジウムは申し込みが必要
 10/4締切 
 詳しくは市文化課               099(227)1962 
 イベント申し込みは MBCサンステージ内事務局 099(255)6144


薩摩藩留学生を「大河ドラマに」
NHKに伊藤知事ら要請

東京・渋谷のNHKを訪れ、2015年の大河ドラマに、
幕末期薩摩・長州両藩の海外留学生を主役にした物語の制作を
要望した。

いちき串木野市は来月から「無料周遊バス」を走らせる。
薩摩藩英国留学生ゆかりの羽島地区もコースに入る。
問い合わせは
「いちき串木野総合観光案内所」
0996(32)5256
いちきEATこ
クリックを!!

鹿児島県立図書館
「薩英戦争の経過たどる」
県立図書館
クリックを!!
同図書館が所蔵する貴重資料の展示がある。
10/5日(土)PM:2時からは
「原口 泉」館長の特別講演がある。
要予約 (099-224-9515)資料課まで
9/11日~10/18日(金)まで

私もこのどれかに参加しようと思っています。

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薩英戦争と英国留学生 ④

賠償金は払う。
捕虜2名を返せ。(拿捕時に2名捕虜にしていたが既に解放していた)
軍艦の購入の手助けをしろ。
船員の育成をしてくれ。

現実的な交渉のできる薩摩を好意的に見た英国は、
和睦に傾いていく。
英国は生麦事件の犯人の処刑を要求していたが、
チャッカリ有耶無耶にしてしまった。
賠償金は幕府に用立ててもらったがこれも返してはいない。

薩英戦争で捕虜となっていた五代才助(友厚)と松木弘安(寺島宗則)は、
米国商人ヴァン・リードに脱出を手伝ってもらって隠れていたが、
その後英国留学生派遣のために大いに活躍する。
特に五代友厚の活躍は薩摩にとって大きかった。
以前から親しかった英国商人「トーマス・ブレイク・グラバー」の
協力のもと(長崎ではかくまってもらっていた)、英国留学の計画が着々と進む。
二人はグラバーの支援のもと船の手配に奔走した。

若き薩摩の群像
「若き薩摩の群像」鹿児島中央駅前

秘密裏に英国と留学生受入の交渉をしていた薩摩藩は、
蒸気船「オースタライエン号」を調達して、
薩英戦争から約2年後の1965年4月17日、
留学生15名・使節員4名合計19名を、
串木野羽島浦から出航させた。
いわゆる英国留学生の使節団だった。
その中には五代と松木も合流していた。

幕府へは近隣の島嶼(とうしょ)への出張と届け出ていた。

次回に続く

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薩英戦争と英国留学生 ③

「英国艦隊撃退されたもよう」!!

薩英戦争のニュースはアメリカに渡り世界を駆け巡った。
英国本国には詳細に報告されるが、鹿児島市街地を焼失させた行為について、
やり過ぎの批判も相次いだ。
英国議会で激しいやり取りがあったこともあり、
日本の薩摩の名は英国は勿論のこと世界に知れ渡った。

薩摩藩は薩英戦争以前より錦江湾内の防備を強化してきた。
鹿児島市天保山(てんぽざん)一帯では島津 斉彬公の指揮の元、
藩を上げて外敵への訓練を怠らなかたのだ。
(今の天保山中学校横には当時の陣屋跡の碑がある)

少し海岸の方に入ると天保山公園内に、当時の砲台跡が残っている。
(鹿児島市内にはもう1カ所祇園之洲にも残っている)
公園への道路脇には当時からの松並木が続いていて、
往時を偲ばせる。
天保山公園
天保山公園
砲台跡A 砲台跡
 砲台跡

敷石1 敷石2
 砲台跡の敷石が丸く残る

戦闘図 戦闘図解説
 戦闘図と解説
青い線が当時の海岸線ですが湾岸の埋め立てが進み、
現在では海岸線から少し内陸になっている。
周りはマンション等が取り囲み眺望はほぼない。
天保山は④

⑫・⑬沖小島との間に機雷(電気水雷)が敷設された。
現在は大正溶岩流が流れ込み島との間が狭くなっているが、
当時はまだかなり広かったと思われる。

公園

英国は今後の交渉次第では大艦隊と地上戦を念頭に、
数万人規模の兵隊の派遣まで考えつつあった。
薩摩の善戦により一時は国内で称賛の声もあったが、
圧倒的な火力の差を見せつけられたことも事実であった。
ここが存亡の決断の時と考えた薩摩藩は、
英国に意表を突く提案をする。


今回からタイトルを替えました。
番外編からの続きです。

④に続く。
暫く続きそうです。

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湯之平展望所 番外編②

一方薩摩藩の被害はどうかと言うと,
死者5~8名ほど、それに拿捕されその後破壊された汽船を含め、
船舶が数隻だった。
しかし、焼失した家屋が500戸に及びこの衝撃は大きかった。

今年は「薩英戦争」150年目にあたり、記念の行事がいろいろ予定されているようだ。
それに合わせて南日本新聞は「衝突が生んだ友好」と題して、
7回のシリーズ特集を組んだ。
私はちゃっかりといくらか参考にさせて頂いた。

英国艦隊
クリックを!
この図は「湯之平展望所」に設置してある説明版。
英国艦隊の航跡図と薩摩藩の砲台位置である。

これによると、
英国艦隊は7月2日午前第一位置海上に停泊。ここは現在も残る「大門口」前になる。
(その後鹿児島市の海岸は大規模な埋め立てにより大門口は内陸にある)
少し移動し第二位置に停泊。
その後磯仙巌園・集成館より少し先、三船村(現在三船療養所がある)沖合で迂回。
よせばいいものを陸地に近接し鹿児島城下沖を航行。
薩摩藩より一斉に大砲の火が噴いた。
14時ころ英国艦隊もようやく反撃し、激しい戦闘が開始された。
薩摩側のまさかの砲撃に英側の反撃は遅れたらしい。
一切の砲撃が止んだのは7月2日3時28分だった。

結果はその時想像だにしなかった旗艦「ユーリアラス号」の艦長及び副長が戦死。
薩摩藩側の家屋焼失等被害も大であったが、英国艦隊の被弾も激しく損傷は甚大であった。
谷山沖で応急修理をした艦隊は横浜に向け帰還する。
数日後横浜に到着するが、英艦船の損傷があまりにも激しく、
まさかの惨状に人々は目を疑ったという。

先ほどの航跡図を見て下さい。
沖小島との間に水雷(機雷)を仕掛けたことが記されている。
残念ながら敵艦隊はその間を通過せず、
作戦は失敗に終わった。

余談ですが桜島横山下にある島は「烏島(からすじま)」。
大正の大噴火により溶岩が流出。
約500m先の海上にあった島を覆い尽くし、
現在では陸続きになって展望所として残っている。

神瀬灯台
クリックを!
沖小島の左少し上。
「神瀬」と表記されているところ、
現在は白い灯台(神瀬かんぜ灯台)が設置されている無人島。

次回に続く

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岩剣神社 4

タイムスリップしてここは4ヶ月後の2012年12月29日。
岩剣C
近所の子たちが何とはなしに境内を散策していた。
画像が途中で僅かですが切れています。写真上をクリックして下さい。

岩剣D
121229_141508岩剣神社E
苔生した石橋の欄干が往時を偲ばせる。

岩剣城案内板
「岩剣城案内板」

島津義弘はここを踏み台として、戦国の世を縦横無尽に駆け回った。
戦歴をご紹介しておきます。

◎岩剣城(いわつるぎじょう)の戦い (現 姶良市姶良町重富 鹿児島県)
 1554年 義弘(二十歳)
 義弘初陣

◎木崎原(きざきばる)の戦い(現えびの市 宮崎県)1572年 (38歳)
 日向の雄伊東氏3千騎に対し、義弘軍は10分の1の300騎で襲い掛かり、
 壊滅状態に・・・・九州の桶狭間と言われる。

◎耳川(みみかわ)の戦い{高城川(たかじょうがわ)の戦い)} (現児湯郡木城町 宮崎県)
 1578年 (44歳)
 島津軍2万騎強に対して大友宗麟(キリシタン大名と言われた)軍3万~4万騎
 死闘の末大友軍を撃滅。

◎沖田畷(おきたなわて)の戦い(現島原半島 長崎県)1584年 (50歳)
 肥前の熊・龍造寺 隆信3万騎を島津軍5千騎で撃破。

◎戸次川(へつぎがわ)の戦い (現大分市 大野川)1587年 (53歳)
 この戦いで勝利しほぼ九州を制圧した。
 しかしこの勝利は束の間、その後じりじりと秀吉に押されついに屈するのである。

圧巻は
◎泗川(しせん又はサチョン)の戦い 1598年 (64歳)
 第2次朝鮮征伐(慶長の役)、秀吉死去により撤退命令が出され、
 各諸将の退却が始まった。
 殿(しんがり)を申し出た島津軍(7千騎)は泗川新城で
 明・朝鮮軍約20万の大軍と対峙した。
 2名の決死の自爆と運にも恵まれた島津軍は、20万(3万~10万と言う説も)の大軍を
 壊滅させてしまった。
 後に義弘公は現地で「鬼石曼子シーマンズ(鬼島津)」と呼ばれ恐れられた。

◎関ヶ原の戦い(敵中突破) 1600年 (66歳)
 西軍総崩れの中で島津勢1000騎弱は、退却を余儀なくされていた。
 思案の末義弘は驚愕の敵中突破を敢行した。
 泗川の戦いでの鬼神の退却戦が脳裏を過(よぎ)った東軍の諸将は、
 ただ手を拱いて棒立ちになって見送った。
 正に敵将家康の直前を通過したという。
 我に返った東軍は追撃を開始した。
 島津軍戦法の「捨てがまり」等を駆使し、なんと義弘は敵中突破をやって退けた。
 所謂「関ヶ原の退き口」と呼ばれる。
 追撃した徳川四天王の一人、井伊直政を落馬させ負傷させている。

と、歴戦に歴戦を重ねる華々しい戦績を残した。
昨年だったかNHKの視聴者番組で、大河ドラマ化の要望が6位にランクインしていた。
是非、大河ドラマでもその勇姿を観たいものである。

今回は今日で終わりにします。
島津義弘公についてはこれからも度々取り上げたいと思っています。

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岩剣城 3

岩剣城入口
岩剣城跡(大手入口)までやって来た。
ここから約20分。
時間が許せばこのまま山頂まで一気に駆け上がりたい。
が、もう時間がなかった。
先を急がねばならない仕事があった。
残念ながらこの日はここまで。
皆さんのご期待に沿えない苦しさを胸に、
途中リタイアせざるを得なかった。

見上げる
無念の頂上を恨めしげに見上げる私だった。

下り
下りは早かった。
周りの竹林は爽やかな涼風をプレゼントしてくれた。

クサギ
この花を見てください。
何かの花にそっくりだ。
そう、12月2日にUPした「クラリンドウ」に。
この時期(9月頃)県内の山野であちこちに咲いている、
「クサギ(臭木)」だ。
この林道もご多分に漏れず、あちこちに咲いていた。
この花クラリンドウと同じ
「クマツヅラ科(又はシソ科)クサギ属」なんです。
(12/2をご参照下さい)

ハグロトンボ
下り終える間際、珍客が私の前に現れた。
糸トンボの仲間「ハグロトンボ」だ。
トンボ目 イトトンボ亜科
カワトンボ科 カワトンボ亜科
アオハダトンボ属

分布 東アジア・北米 国内は本州・四国・九州
このトンボはオス。
胴体は金緑色。翅は勿論真っ黒。
P9030533ハグロトンボ2
ハグロトンボ3

私の傍から離れない。
何枚も心置きなく撮らしてくれた。
その上に何と見詰め合ってしまった。
まるで義弘公が歓迎してくれるかのごとく。

この神社から小一時間の間に全く人とすれ違うことはなかった。
義弘公の偉業を分かる者としては、なんとも寂しい思いがした。

次回に続く。

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岩剣神社から岩剣城 2

岩剣城入口
岩剣城登山口
今から遡ること4ヶ月前の9月初め(H24.9/3)、真夏の30度を超え汗が噴き出る中で
この神社を見つけた。
その時は小躍りして喜んだ。
私はおよそ10年の間「岩剣城」を探し求めていた。
この地域にある事は薄々知ってはいたが、
探し求めていた岩剣山、岩剣城の麓に辿りついた歓びは、
皆さんには解って戴けないかもしれない。
岩剣神社
岩剣山

参拝を済ました後岩剣城への坂道を登り始めた。
なだらかな1本路だ。
時間は余りないが行けるところまで行ってみようと思った。
2級林道
野草

この道路は車道でどこかに通じていたらしいが、
今は入口に進入禁止のロープが張られ、人以外は通行できないようだ。

振り返ると姶良の街並みが見える。
この平野で義弘は「稲釣り」という戦法で敵を攪乱していく。
姶良市
竹林

路の左右には孟宗竹の林が斜面に沿って広がっている。
「竹林の景観形成を目的として整備された」との標識が。
左斜面は切り立った崖が続く。
何人たりとも寄せ付けぬ剣を思わせる崖だ。
崖
岩剣城登山口
路はグーンと右にカーブして行くが、「岩剣城跡登山口」の標識が見えた。
頂上まで20分と書いてある。

次回へ続く。

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岩剣(いわつるぎ)神社

岩剣A
年の瀬の押し詰まった12/29(2012年)鹿児島県姶良市のお客様宅に出向いた際、
お客様の都合で1時間空いてしまったので、近くの岩剣神社に寄ってみた。
ここは昨年9月に寄って以来、この日で2回目の立ち寄りだ。
この神社は「島津 義弘公」が初陣を飾った「岩剣城」の真下にある。
正月の準備はすっかり整っているようだが、
人っ子一人見えない静寂の中にひっそりと建っていた。
神社は小規模でかつて数千人の武者共が、壮絶な戦いを繰り広げた戦場の面影は今はない。

岩剣B
(携帯での撮影のため画質が悪いようです)

神社の裏山を見上げて欲しい。
標高はせいぜい220mの岩山だが、剣の刃のように切り立った岩肌は、
全く人を寄せ付けない断崖だ。
この岩剣山には山頂に陣取った蒲生範清の出城「岩剣城」があった。

1554年9月島津の分断を図ろうと、西北大隅の国人蒲生範清の進出に、
そうはさせじと島津方の軍勢がこの地で対峙した。

次回に続く

参考本
①歴史群像シリーズ 戦国セレクション
 裂帛 島津戦記
 学研
②島津義弘
 江宮 隆之 著
 学研M文庫
③島津義弘の賭け
 山本 博文 著
 中公文庫

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島津 義弘公(妙円寺詣り)④

少し脱線してしまいました.
本題に戻ろうと思います。

義弘像
(伊集院駅前 2011.10.24)

何故、たった1千騎だったのか?

義弘の不幸は二男であったことと、人が良かったことだ。

兄を立てる余り島津の兵を、自由に動かすことが出来なかった義弘。
兄義久は秀吉を嫌っていた。
秀吉の九州征伐で島津は軍門に下るが、義久は戦後処理が気に入らない。
また、秀吉の朝鮮渡海命令に素直に従っていなかった、
三男「歳久」の首を差し出せとの命に、義久は泣く泣く処刑せざるを得なかった。
その後「石田三成」の指示も気に入らない。義久を大隅に移し当主を固辞した義弘に代わって、
義弘の子「忠恒」を当主にせよとの沙汰。
義弘は兄に遠慮して帖佐を居所とした。

島津は関ヶ原では東軍に加担するつもりだった節がある。
家康との内約で鳥居元忠の居る伏見城に加勢に参じた。
が、鳥居元忠は素直に応じず島津隊を受け入れない。
挙句の果ては場内から攻撃を仕掛けられ、図らずも応戦する事態になった。
已む無くではあったが島津隊は伏見城内の鳥居元忠軍を殲滅する。
(家康は、はなっから義弘を受け容れるつもりはなかったとの説もある)

計画が狂った義弘は、泣く泣く西軍に合流する事になった。
しかし、西軍への加担を国元は気に入らない。
義弘は再三義久へ兵を出すよう懇願する。
また息子忠恒にも要請するが、義久に気を使いとうとう兵を出すことはなかった。

しかし、義弘を慕う武将達が薩摩を脱藩して、関が原に駆けつける。
その行程は苦難の極みだった。
その様子は「島津奔る」(池宮 彰一郎著)に克明に綴ってある。

次号に続く。

昨夜はNetが繋がらず、悪戦苦闘しておりました。
世の中思うようには事が進みません。

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島津 義弘公(妙円寺詣り) ③

「妙円寺詣り」と言うのに、詣るのは徳重神社。
妙円寺は義弘公が寄進し菩提寺としていた。
明治初期(明治2年)に行われた「廃仏毀釈運動」により、
寺院は解体廃止され、同年同地に徳重神社が建立された。
現在「妙円寺」は徳重神社の道路向い左奥に再建されているが、
県民でさえ殆ど知られていない。
従って現在は「徳重神社」に参詣しているが、
「妙円寺詣り」として行事は行われている。

示現流

神社の境内では様々な演技が奉納される。
「示現流」の練習演技もその一つだ。
「一撃必殺」の「薬丸自顕流」。
相手の太刀もへし折り致命傷を与える。
またへし折らないまでも、そのまま押し込み殺傷する。
一の太刀にすべてを懸ける。
「二の太刀要らず」といわれる。

追加です。
薬丸A 薬丸D
 
薬丸C
[You tube]「薬丸野太刀自顕流」

示現流は1500年後半、「東郷 重位」が流祖だ。
そもそも東郷氏の先祖は関東の「渋谷氏」に遡る。
鎌倉幕府が相模の国の「渋谷氏」に北薩摩の地頭職を命ずる。
その渋谷氏の五人の子に五か所を統治させることになる。
渋谷五郷(五族)といわれ、「東郷・高城・入来院・祁答院・鶴田」
を治めさせる。
その一つが「東郷」、その末裔が「東郷 重位」ということで、
地元の方々は示現流は東郷の誉れと自慢する。

石塔群表紙 図形家系図抜粋
                    家系図を一部抜粋した。
余談だが幕末に西郷隆盛が連れていた犬「ツン」も東郷町出身だ。
東郷町にある藤川天神(菅原 道真公を祀る 公が隠棲した地で、
晩年の数年をここで過ごしたとも言われる)で薩摩犬の「ツン」
と出会い、非常に気に入って鹿児島に連れて帰った。
ツン
藤川天神 菅原 道真公
  藤川天神

東郷町の宍野地区にある墓石等に2個の長方形が刻印されているが、
これは渋谷氏のしるしとして、関東地域でも見られる。
シッタレはこの墓石群を守っておられる「川原氏」とのお付き合いがあり、
この地域の歴史をいくらか勉強させて貰った。
長方形2個 石塔群
 2個の長方形の刻印が見られる。

サムネイル画像をクリックすると拡大します。

次号に続く。

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島津義弘公「妙円寺詣り」 ①

炎表紙

10月22~23日は鹿児島三大行事の一つ、
「妙円寺詣り」が行われた。
シッタレもほんの僅かであるが、参加してきたのでその様子の一部を、
皆様にご披露したい。
太鼓踊り 徳重神社
 
そもそも「妙円寺詣り」とは?
関ヶ原の戦いで島津は敵中突破を果たした。
その苦難をしのび、士気を鼓舞し、心身の鍛錬を目的として、
鹿児島県民はこぞって約5里(20km)を歩き、
妙円寺(現徳重神社)に詣でる。

炎

その敵中突破の偉業とは?

時は1600年「天下分け目の関ヶ原」の合戦。
石田勢が敗走し東軍の勝利がほぼ決定的になった時、
それまで微動だにしなかった島津勢は、
ようやく動き出した。
それでも敵と切り結ぶ内に、約1千騎の兵はわずか3百騎になっていた。

義弘は退き方を考えていた。
なんと石田勢を追撃して来た東軍との大混乱の中で、
敵の真っ只中、中央突破を考えたのである。
西に退くのではなく東に、敵の中央突破を敢行したのである。

正面には「福島 正則」勢が待ち構えていた。
しかし、島津勢の決死の形相と一糸乱れぬ軍列にたじろぎ、
誰も手を出す者はない。

一時、家康の本陣を後退させ、その横をかすめて東軍の中央を突破した。
気づいた「松平 忠吉」「井伊 直政」や「本田 忠勝」らは、
あわてて追撃を開始する。
勢いに乗じた「井伊 直政」は馬上から「義弘」に詰め寄ったが、
島津の将兵に鉄砲で狙撃され負傷した。

数万の敵にたったの3百騎。
「島津 豊久」・「長寿院 盛惇」(ともに義弘の影武者として)の討死。
また、薩摩独特の捨て身の戦法「捨て奸(がまり)」で、
次々に倒れていく。
堺に着いたとき島津勢は僅か70~80になっていた。

[You tube]
「島津義弘隊 前進撤退」

これが世にいう「島津の関ヶ原退き口」所謂、
「敵中突破」である。

何故、たった1千騎で最後まで留まれたのか。
何故、たった1千騎だったのか。
何故、どの軍も島津を避けたのか。

そこには大きな伏線があった!!

松明
サムネイル画像をクリックすると拡大します。

今宵よりシッタレの得意分野「歴史」の世界に、
皆様を誘い申そうと存ずる。
しばしお付き合い下され度お願い申し上げる。

次回に続く。

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