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クコと南港⑧あさり

今回は魚釣りの女性と遭遇してしまったので、
急遽思いついたシリーズです。
従って何の準備もないただ思いつくままの記事であり、
乱雑な表現,場合によっては誤字脱字もあるかもしれません。
その辺は平にご容赦いただき次に進めたいと思います。

前回極貧家庭の話をしたので、も一つ関連の話を取り上げたいと思ます。
このシリーズは港奥から桜島を見て左から攻めてきましたが、
今回だけ港の反対側の右側を取り上げます。

港の右方向はまだ砂浜が広がっていた。
すぐ傍は山から直径2m位の鉄管を通して、
土砂を運ぶ「水搬工法」という方法で、
埋め立てが始まっていた。
(管と管の隙間から水が噴き出しわざと濡れたり、
 管の上に飛び乗って遊んでいた。)
南港右側見えている辺りから埋め立てが初まり、
一部宇宿町・東開町・南栄町・卸本町・谷山港・七つ島等と
広大な土地が広がって行った。
ただその昔の海岸はずーっと砂浜だった。

その砂浜で獲った「アサリ」を近くの真砂商店街の路上で、
ザルに小分けして売っていた。
(売上金はくすねないで親に全て渡していた。)
真砂商店街は今では少し寂れてしまったが、
当時は結構賑わっていた。
子供が声を枯らして道行くおばさんにお願いするので良く売れた。
商品は何もアサリに限らなかった。
海の幸では他に「ワタリガニ」「蛤」「バカ貝」など。
山の幸も季節に応じて並べた。
春の「筍類」・秋の「自然薯」等々。

あさりあさり子供

筍

自然薯
自然薯のイラストを探したのですがどうしても出てこない。
仕方がないので自分で描きました。イメージが出ているでしょうか。
本当の自然薯は深くまで伸びるのでもっと長いです。
紙面の都合上短い物を描きました。

「自然薯」のことで一言、云いたいことがある。
山の荒れた土地で育った自然薯は弾力があり、
余りとろとろしていない。
長芋などとは全然違う。
ところが最近、山芋を畑で栽培して「自然薯」として出しているようだ。
弾力は余りなく長芋を擦ったものと大差はない。
私は思う。
固い地盤で風雨に鍛えられ頑固に生き抜いた、
山中から苦労して掘り出したものだけを「自然薯」として欲しい。
他は「山芋」でいい。
山芋は環境で大きく変わるものだから。
東京キー局のTV番組を見て少し違和感を持った。
本物の「自然薯」を採るには相当の苦労・労力が必要ですから。

途中で折ってしまい何度も失敗した。
綺麗に取り出すのは至難の業だった。
(私の小学6年生頃までのこと)

港関連の話が逸れてしまいました。
次回は元に戻して話を続けます。

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クコと南港⑦インドカレー

南港はその昔は多目的港湾だったように思う。
遠く南方より原木を運んで来て貯木したり、
外国船が穀物・鉱石類の原材料を積降していた。
クコB少しわかりにくいですが、写真右奥の黒い建物の前辺り。
画像のクリックをお願いします。

ある日(小学生低学年の頃)いつもの通り我々餓鬼ども5~6人が遊んでいると、
貨物船の中からターバンを巻いたインド人様の人が、
こっちへ来いと笑顔で手招きしている。
皆で恐る恐る行ってみた。
ターバン

すると船に登って来いとのジェスチャー。
我々は恐々言われるがままに甲板まで登った。
次は中に入れとの招き入れる仕草。
案内されたところは船内の食堂だった。
気にはなっていたが入る途中から
美味しそうなカレーの臭いがした。
ナンカレー

案の定皿にカレーを注いでくれて食べろと言う。
あの優しそうな目と態度は少しの不安もなく、
躊躇なく我々は口に頬張った。
ただ、残念ながら記憶がかなり曖昧で、
ライスの上にカレールーのかかった
今の我々が食している普通のカレーだったか、
ナンにカレールーだったかはよく覚えていない。
覚えているのは少しカレールーが水っぽかったことと、
異常にヒリヒリと辛かった記憶がある。

我が家は生活困窮の極貧の家庭だった。
日頃は碌な食事も食べられない境遇。
あのカレーの振る舞いは本当に有難かった。
嬉しかった。
船内でのそれ以外の交流はなかったけれど、
子供の頃のいい思い出として記憶に残っている。

考えてみるとあのころは外国船に検閲もなく、
難なくよく乗船できたものだ思う。
現在ではそうは行かない出来事なのかもしれない。

今日はもう11月に突入しました。
あと2カ月ですね。
私ごとですが残り2カ月の間に公私ともに
大きな予定が控えています。
もう一踏ん張り頑張ります。

このシリーズ少し飽きたかもしれませんが、
まだまだ続きます。

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クコと南港⑥港大火2

原因は放火ではないかと云われている。
子供の頃のことで一部記憶違いがあるかもしれないが、
かなりショッキングな事件で今も頭から離れない。
時々夢で魘されることもある。
真っ赤な炎が襲い掛かる、それに立ち向かう消防車。
紅蓮の炎が時々夢に出てくる。
クコと対岸対岸のショッピングセンター辺りから左側一帯がタンク群だった。
画像をクリックして下さい!!

ところで、私はオールカラーで夢を見ます。
人に聞くと夢に色を意識したことはないとか、
カラーの夢は一度も見たことがないと言われる方も多いが、
私の夢は総天然色だ。

話が飛んで申し訳ないのですが火災の出火元の、
賠償責任はどうなっていると思いますか。
民法第709条では、
「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される
 利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」
としていますが、
放火のような重過失は別として、
失火(軽過失)の場合は、
「失火の責任に関する法律」という特別法により、
損害賠償の責任を負う必要はないのです。
(私は行政書士の資格を持っています)

日本は木造家屋が多く大火になりやすい。
*江戸文化の大火(1806年)  12万6、000戸焼失
*大阪北の大火(1909年)     1万1、365戸焼失
*酒田大火(1976年)          1、774戸焼失

出火元に責任を負わそうにも賠償の能力はまずない。
失火に関しては自分の財産は自分で守ることを
法は要請している。(火災保険などを利用して)
ただし、借家の借主が失火で焼失させたときは、
貸主に対し原状回復義務を課している。

被災者は小・中学校にそれぞれ避難した。
その後どのくらいの期間だったかは覚えてないが、
授業は午前・午後の2交代制となった。
慰問のグループが次から次に訪れ被災者の心を慰めた。
夜は大木の幹にスクリーンを括りつけて
映画を見せてくれた。
そのころからボランティアの精神が息づいていた。

授業は半日受ければよく何の心労もない私たちは、
毎日が楽しくて仕方がなかった。
被災者の気持ちも考えずに。

現在この地域は立派な戸建住宅が並び、
一角には7~8階建ての市営住宅が何棟も建ち並んでいて、
何処を見ても大火の跡は微塵にも感じさせない。

クコと南港と・・・はまだまだ続きます。

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クコと南港⑤港大火その1

間夜中の1:30分、突如として静寂の闇を切り裂くように、
けたたましいサイレンの音と半鐘の音が鳴り響いた。
ただ事ではない数のサイレンに飛び起きた。
1961年(昭和36年)10月2日のことだ。

外を見ると東の空が真っ赤に燃えている。
半端ではない真っ赤な空だ。
「大火事だ!!」
延焼の心配もあるので家族で様子を見に行くことにした。
近所の皆さんも挙ってその方向に駈けて行く。

新川に掛かる鶴ケ崎橋の所まで来ると、
(自宅から500~600m位はあるか)
町全体が地獄絵のように燃え狂っていた。
ここまで来るともう手の施しようもない状態。
まだ被害に合っていない住宅に延焼を食い止める、
ための放水が関の山だった。

高く舞い上がった火の粉は東からの強風に煽られ、
南港を越えて当時宇宿町(現新栄町付近)の、
燃料基地タンク群(数十基)の方向に火の帯となって、
襲い掛かって行った。
(燃料基地は現在もっと南の七ツ島の工場地帯に
 移転している)
消防車の一部はタンク群に急行し放水を開始。
こちらからその緊迫した様子が見えていた。

タンク群中央の青い建物から左側にタンク群はあった。
手前から青い建物方向に火の帯は襲い掛かった。

鹿児島市の歴史的な大火「郡元町港大火」。
774世帯(751棟)が焼失した。
私が小学低学年の頃だった。

港大火②に続く。

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クコと南港と⑤牛市

グヒィーー!!
モウーーー!!
モモモモモウーーーー!!
ドッボンーーーー!!
ザッブンーーーー!!

カラス貝のもう少し向う。
南港C
月に2回くらい大隅方面から漁船が大挙してやって来た。
船の甲板には黒の大牛が隙間もないほど乗っている。
鹿児島南港近くにあった牛の競り市場に出すためだ。
牛A

牛の陸揚げが面白い。
人が数人がかりで牛を船から海に突き落とすのだ。
牛は断末魔の叫び声。
その時の声が冒頭の音になる。
が、その後は何という事はない。
牛は海中を上手に泳ぐ。
むしろ楽しそうにスイスイ泳いだ。
牛は思いがけない状況にただ驚いただけだった。

勿論綱は引いているので近くのスロープに手繰り寄せ、
陸地に難なく上陸することになる。
その様子の一部始終を見ることが度々あった。
私の母は大隅半島の垂水市の出であった。
そこから叔父が牛を市に出すため船でやって来たのだ。

牛市の日は市場の近くに露天商が店を並べた。
金物屋・ザル屋・ピーナッツ売り等々沢山の店が並んだ。
勿論我々子供が喜ぶ駄菓子屋やアイスキャンデー売りも、
店を連ねた。
あ、そうそう紙芝居屋もいたな~。
あの少し歯の出たおじさんは御健在かな~。

牛が良い値で売れた時は叔父は何か買ってくれた。
牛市の日はそれが楽しみだった。

牛B

今はそんな牛市は全く見かけなくなった。
どこに消えたのだろうか?
どこか鹿児島市外に移ったのかも知れない。

まだまだ続くよ。
南港内思いで廻り。

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クコと南港と④カラス貝

南港B

クリックを。

写真の漁船の先に丸いタンクのようなものが見える。
そのあたりの岸壁にへばりついていた黒い二枚貝。
「カラス貝」と呼んでいた。
湯がいて食べるとそれは美味だった。
プリツプリの身はアサリより豊満で、
お腹への収まりも数段良かった。

その後数十年経ってその貝がおフランスでいう、
あの高級食材の「ムール貝」だということを知った。
日本名で「ムラサキイガイ」、あちら名でムール貝。
道理で美味しいはずだとその時は納得した。

しかし、手離しで喜んではおられなかった。
カラス貝は栄養分は豊富だが水質の悪い環境が好みらしい。
言われてみると当時は生活排水がそのまま流れ込んでいた。
何も知らずにその貝を喜んで食していた。
今から吐き出してももう遅い。

ここで「ムール貝」の名誉のために一言。
現在ムール貝は環境の整ったところで生産されているとのこと。
何の心配もご無用と言うことです。

ところで子供の頃樹の根を穿って皮をかじっていたものがあった。
鹿児島では「ケセン」又は「ゲセン」と言った。
日本名は「桂皮」「肉桂」「ニッキ」「ニッケ」。
おフランスではお洒落なお名前「シナモン」。
(本当は近縁種で少し違うようですが)
アップルパイ・シナモンロール・シナモンティー
私のこよなく愛するヨーロッパの香り。
おフランス繋がりで取り上げた次第です。

鹿児島ではケセンの葉2枚で挟んで蒸した
「ケセン団子」が郷土菓子として親しまれている。
所変わればこんなにもお洒落な食品に変わるんですね。

まだ続きます。

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クコと南港と③黒鯛

今立っているこの辺りで私は初釣りをした。
それは5歳の頃(だったと思う)の遠い昔のはなし。

男兄弟4人(私は末っ子・・・鹿児島弁でシッタレと言いますAuthor名です)
で魚釣りを楽しんでいた。
兄たちは鯵などの小魚を次々上げるのに
私には一向に掛かってくれない。
夕方になりそろそろ帰ろうと兄たちは釣り糸を巻きあげ、
帰り支度を初めた。

釣果ゼロの私も渋々釣竿を持ち上げた。
すると幅5cm、長さ8cm位のぺらっとした真っ黒い物体が
ただダラッとぶら下がってきた。
特に動きはない。
たき火後の木の燃えカスのような黒い墨が、
針先に引っかかっているように見えた。

「兄(あ)んちゃん 墨が引っかかった!!」私は叫んだ。
兄たちは笑いながら近寄ってきた。
するとピクツと墨が跳ねた。
良く見るとなんと黒鯛の子だった。

釣り糸には何の引っかかりの感触もなかった。
もしかすると少しは引いたのかも知れないが、
波の動きで気づかなかったかも知れない。
今と違って昔の釣竿は自分たちの手造り。
竿の先端は微妙な動きを察知できなかった。
また察知する能力もなかった。

相手もまだ幼い鯛の子供。
キャッチ アンド リリースの考えで海に戻してやった。
遥か昔のたわいもない一コマだが私は一部を除いて、
鮮明に覚えている。

私の釣った初釣果は「黒鯛」だったという事を!!
それに釣った場所はここだったという事を!!

南港A
<鹿児島南港>
フグを釣った女性が写っています。

まだまだ続きます。
写真に写っている場所から段々港奥に向かって、
話は進んで行きます。

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クコと南港と②クコ

クコメイン

車を降りて岸壁に駆けつける直前コンクリート壁の角っこに、
真っ赤に熟した実がたわわに実っていた。
それはクコの実だとすぐ分かったが、
大格闘女性の獲物捕獲の行方が気になって、
クコの実は後回しになっていた。

釣りの一騒動が収束するとクコの実が気になりだした。
真っ赤な実がこんなにも鈴生りになったクコの樹を見たことがない。
良く見ると実の回りに紫の花が見える。
クコの花も同時に咲いていた。
初めて見たような気がする。
クコ花

枸杞 (クコ)
ナス科  クコ属
原産地  中国
落葉低木
クコの実は「枸杞子 くこし 」と呼ばれる。
生薬・クコ酒・薬膳料理として利用される。

クコの実はあちこちの生け垣で見かけることはあるが、
クコの花はこれまで気づいたことはなかった。
もしかしたら見ていたのかも知れないが。

どうして海風の強いこの場所に根付いたのだろう?
誰かが意識的に種を蒔いたのだろうか。
それとも、遠くアジアの彼方から黒潮に乗って流れ着き、
嵐の日の大波で打ち上げられたのだろうか。
それにしても鮮やかな真っ赤な実と、
控えめに咲く薄紫の花の姿は、
私の興味をそそらない訳はなかった。
クコA
クコB

追加です。
クコの茂みと咲き位置の判る画像を追加しました。
クコC
クリックをお願いします。

この岸壁に立って潮風の音を聞きながら軽く目を閉じると、
40~50年前の遥か昔~遥か昔、
私の幼い洟垂れ小僧の頃の情景が蘇えってきた。

次に続きます。

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クコと南港と①ドロフグ

この日昔懐かしい知人を訪ねようと鹿児島市内の工場地帯を走った。
残念ながら目的の工場は経営者が変わり懐かしの人はいなかった。
諦めて海が見える場所まで道なりに車を走らせた。

すると約200m先の堤防で女性が体を大きくくねらせて頑張っている。
少し近寄ると釣竿が左右に激しく揺れ大物魚と大格闘の最中だと分かった。
車を近くに停め傍まで走った。

ここは鹿児島南港の左側先端の突堤の上。
港は屑鉄の積み下ろしや、ガスタンクの充てん作業などの他、
海上保安庁の巡視船が停泊する工業港だ。
私は幼少期この近辺で育った。
昔は砂浜が南の谷山まで続いていた。
ラサール高校のすぐ下も白砂青松の砂浜だった。
その先七ツヶ島まで続いていた。
しかし、南港の一部だけは既に岸壁が出来ていた。

周りには2~3人の男達がその格闘の顛末を固唾をのんで見守っている。
皆笑を堪え釣り糸をじっと見つめていた。
すると上がってきたのは何とこれだった!!
フグUP
グロテスクで申し訳ありません。

ドロフグ
クリックをどうぞ。

体長は30cmくらいはあった。
釣竿が大きく撓る筈だと改めて思った。
「フグの名は?」と私が尋ねると御主人と思しき人が「ドロフグ」だと言った。
食べると美味しいんだとも言われた。

戻ってネットで調べてみたが「ドロフグ」は出てこない。
フグ図鑑を調べてみてもこの肌模様はなかった。
顔だけ見ているとウツボに似ているような。
何となく他のフグより獰猛そうに見えた。

次回に続きます。

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夕まずめ コンサート ⑤

中学での音楽活動はあっという間に過ぎ去り、
私は憧れの高校音楽部に入部した。

バイオリン

しかし、喜んだのも束の間その音楽部は、
地獄の3年間を用意してくれていた。

朝練は6時から。
4時限目前に早弁の後昼の猛練習。
放課後は夜8時まで軍隊式の過激練習。
(股を開け!歯をかめ!拳骨で吹っ飛んだ。
戦後20年以上は経っているというのに)

冬は早朝3時に家を出る寒稽古。
徒歩で一時間。4時に学校に着いた。
先ずは隊列を組み各自楽器を持ってマラソンだ。
(足は霜焼けで腐った)

夏はお寺で合宿修行。
朝4時から座禅を組んだ。
昼は炎天下の街をパレードだ。
顧問から「なにやってんだ!馬鹿もん!」拳骨で3m強飛ばされた。
この練習が世間に知れ渡りNHKが全国放送をしたほどだ。

普段は埋立地堤防裏の目の届かない砂浜で、
上級生からの暴力的シゴキが連日連夜。
休みは1月1日とテスト前の一日二日。
それでも3年間を耐えに耐えぬいた。
振り返れば60人の新入部員が辛うじて13人生き残っていた。
ピアノ黒

話はまたまた戻りますが、
3年間があっという間に過ぎ去った。
その間、中学の後輩達のことを考える余裕はなかった。
私はその後音楽の道を進むべくビクターへ。
その後事情があり懐かしの故郷へ戻ってきた。

何度となく後輩のことは頭を過ぎったが、
40数年の間会う機会もなく今に至っていた。
それが後輩と分かった途端一気に当時がよみがえり、
尽きない話で盛り上がっている。
楽譜2

これからは様々な機会で互いに助け合っていけると
信じている。


今回の話はこれでお終いです。

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夕まずめコンサート ④

話を元に戻そうと思います。

今回のコンサートの約1カ月前リクエスト曲を
主催者に持ち込んだ時、あのシンセ奏者が気になって
いることを伝えてみた。
「昔、中学校でピアノがうまい1年後輩がいました。
あの奏者も我々と同年代に見えるが、中学校はどこだったか
聞いてみてもらえませんか。」
残念ながらリストを伝えるだけで直接は会わないとのこと。
真相は当日確認する以外になかった。

ピアノ青

コンサートの当日私たちは特等席で観ることになった。
会場が狭いため演奏者の横から見る位置に座った。
私は演奏者二人が忙しく準備をする様子を見つめていた。

「やはりそうだ!!」
後輩の彼だと確信した。
あの顔は絶対ピアノの彼氏だ。
僅かではあるが昔の面影を残していた。

既に45年近くが過ぎていて名前も思い出せない。
ほぼ準備を終えていたシンセ奏者の前につかつかと近づき、
「すみません。中学校は〇〇中ではなかったですか?」
「昔中学生の頃はピアノを演奏していませんでしたか?」
「私の旧姓は△△と言いますが記憶にないですか?」
(現在私は家内の方の苗字を名乗っているので)
私は矢継ぎ早に質問した。

すると彼氏が、「やはりそうでしたか。」
「私も△△先輩に似ているなと思っていました。」
「名前が違うのと何しろ45年近くお会いしていなかったので、
 確信が持てませんでした。」

やはり彼氏だった。
45年の空白はあったが一気に先輩後輩の関係が戻った。
私たちはこの再会を本当に喜び合った。
後輩は地道に音楽の世界を貫き、
今ではプロで活躍する大先生になっていた。

会場では彼氏が皆さんに紹介してくれた。
後で知ったが高校も同じ高校に進学したらしい。
お互いに全く気付かないままだったようだ。
コンサート終了後彼氏の提案で次回のコンサートは、
私も演奏者に加えてもらうことになった。(2~3曲だけ)

次回に続く。

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夕まずめコンサート ③

私の出来る楽器はハーモニカ。
(家にあった大正琴も演奏できたがこれではチョットね)
小学3年生のとき家にあったハーモニカを持って、
近くに住む音楽の先生(女性)に教えを乞いに行った。
先生は快く教えてくれた。
(恥ずかしいことに何先生だったか今では全く覚えていない)

ハーモニカ

音楽部創設のお願いに行く前に、例のピアノが出来る1年後輩の
彼氏に声をかけた。
彼もすぐに同意してくれた。
彼は丸顔で浅黒く坊主あたまで、
いつも明るく笑顔でいてくれた。
私は心強い味方を得て二人で職員室に乗込んだ。

有難いことに先生も前向きに考えてくれて、
ほどなく創部の許可が出た。
学校の既存の楽器に加え、新たに調達してくれた楽器もあった。
少ない予算の中でかなり無理をされたのだろうと、
今して思えば感謝に耐えない。

まだ中学校でブラスバンドのクラブは少なく、
私たちは音楽部と言うより器楽部として発足した。
ピアノ・オルガン・アコーディオン・ハーモニカ・バスハーモニカの他
アンサンブル用ハーモニカ・ドラム等の編成だった。

アコーディオン

放送部の私は校内放送で部員を募った。
記憶は定かではないが30名くらいは集まったと思う。
それからの毎日の練習は本当に楽しかった。
高校受験も控えていたが極貧の家庭では有名大学も望めず、
鹿児島ではブラスで名を馳せていた高校に行くことを、
勝手に決めていたので受験勉強はあまりしなかった。

その内音楽コンクールにも出場することになった。
出場曲の一曲は「ドナウ川のさざなみ」だったことを良く覚えている。
この楽曲は私の生涯忘れえぬ一曲となっている。

次回に続く。

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夕まずめコンサート ②

1回目のコンサートで少し気になっていたことがあった。
「昔ピアノがうまい後輩がいたなー」と。
ピアノ

「このシンセ奏者も歳の頃からいうと我々と同世代だよなー。」
ふと頭に過ったが特に確認もせず、コンサート終了時に感動を伝え
その会場を後にした。

話は今から45年くらい前に遡る。
中学3年生の私はある願望を持っていた。
それはこの中学校に無い音楽部を創設することだった。
みんなで楽しい音楽が出来ないものかなと思っていた。
また、何か一つでも足跡を残したいなとも思った。
放送部員でもあった私が両立できるか自信はなかったが、
とにかく音楽を奏でみんなで感動してみたかった。

当時、好きな学科は植物(理科)と音楽。
特に音楽は好きで他の学科はさておき成績はよかった。
音楽教師が不在の日は先生からの指示で、
復習に限って先生の替わりを務めていた。

次回に続く。

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押入れで震える

③ 玄関でカミナリがおらった(大きな声を出す)。すごい血相のようだ。
他へ行けばいいものを、カミナリは我が家に直行で飛んできた。
生きた心地がしない。殺される。ションベンがチビれた。
襖を少し開けて覗いてみると、なんとあの日本刀を振りかざしているではないか。
出て来いと喚いている。叫んでいる。
今正に、玄関を上がってこようとする、その時だった、
カミナリの前に、すっくと立ちはだかった者がいる。
我が家の、肝っ玉母ちゃんのお出ましだ。
その暴漢になんと素手で、立ち向かっていった。
「いい大人がなんごっなッ(何事だ)。子供を相手に。」
「恥ずかしなかかッ!。とっとと帰れッ!!」
勇ましい。なんとも頼もしい。私の母ちゃんデベソ!いや素晴らしい。
その母ちゃんの、活躍の出番は、これから何回もある。
ご期待あれ。
その時父ちゃんは、裏でこっそり隠れて見ていた。
母ちゃんは笑っていた。
終わり

テーマ : どうでもいいこと
ジャンル : その他

押入れで震える

② 決行の日が来た。用意した物は
薄板の折箱。(当時、遠足の弁当は、皆この薄板の折箱だった。)
新聞紙と割り箸、それに輪ゴム二本。それだけ。
先ず、折箱に砂を詰める。その上に誰のか覚えていないが、
うんこをプリッ。大きいのを。くさっ。みんな鼻をつまむ。
割り箸で形を整え、蓋をかぶせ、新聞紙で丁寧に包む。
輪ゴムで止めをし、お詫びの品が出来上がった。
玄関で親父を呼んだ。普段の非礼を詫びた。丁重に。
みなで深々と頭を下げ、静かに外へ出る。
みなでうなづき合い、ワーッと後ろも見ないで、一目散に散らばって逃げた。
私は兄たちと家に駆け込み、押入れで震えていた。
続く

テーマ : どうでもいいこと
ジャンル : その他

押入れで震える

我々が子供の頃は、皆外で飛び回り、あまり勉強した記憶がない。
学校から帰ってくると、直ぐ飛び出して行った。
遊び相手の年齢差はかなりあった。年輩者が年少者に色々教えてくれた。
子供の頃の遊びには、知恵があった。工夫があった。年上に習った。
これから私に起こった、数々の話をしていこうと思う。
出来るだけNonfictionで書きたいが、何しろ月日が経っているので
いくらかFictionの部分があるのは、ご容赦戴きたい。

1 押入れで震える
① 私は5人兄弟のシッタレ(末っ子)である。幼い時は泣きながら母を捜して
いつも泣いていた。甘えっ子であった。
兄たちは近所の悪ガキどもと走り回り、私はいつも置いてきぼりだった。
4~5歳になると、近所の仲間に入れてもらえるようになった。
狭い路地で走り回り、近所の家の物を壊し、大騒ぎしていた。
又、果物をちぎり悪さをしていた。迷惑を掛けていた。
大きな屋敷があった。昔の武家の屋敷らしく、床の間には日本刀が鎮座している。
欄間には黒田武士の槍が横たわっていた。
そこの親父はいつも怒っていた。叫んでいた。喚いていた。
コラッ!またんか!このバカたれどもが!いつもこの調子であった。
ある日、みんなで密談をした。なんとか仕返しをしよう。こそこそと話し合った。
 続く

テーマ : どうでもいいこと
ジャンル : その他

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